経営の現場で見たもの
1970年当時、日本企業では経営の近代化が叫ばれていました。そのような背景もあり、大学では、経営学やマーケテイングが大きな人気を得ていました。経営学を学ぶ学生は、テーラーの科学的管理法、フオードの生産方式、事業部制など経営組織論などアメリカの経営学こそが最先端の経営手法だと信じて疑いませんでした。
現在でもMBA取得についての書籍が販売され、MBA取得で得た経営学の知識によって会社の経営ができると考えられています。もちろんMBAの知識が無用というわけではありません。当時は筆者もご多分に漏れず、経営やマーケティングの最先端の知識があると、変な自信すら持っていました。
ところが、経営の現場をみますと、確かに経営学で説明するような事例は見ることが出来ましたが、決して理論が先にあって、その理論に基づいて経営活動を行っているわけではありませんでした。もちろん経営の現場では、テーラーの科学的管理法やフオードの生産方式を詳しく知る人は皆無で、そのような知識がなくても、経営は順調に推移していました。中には、遅れた経営の見本である「日本的経営」といわれていたようなものも数多く目にしました。
生きた経営
その中でも1970年当時、「事業部制」は最先端の経営組織として紹介されていました。もちろん数多くの企業で事業部制を採用していったようです。その中でも、大学の先生が事業部制の見本として挙げていたのが松下電器(現パナソニック社)でした。
その松下電器の事業部制について、社内の研修などでの説明を聞いていますと、経営学で説明されているものとは大きくその印象が変わるものでした。
経営学では、事業部制を採用する目的を「責任と権限の委譲」の面から説明されます。ところが松下電器が事業部制を採用した理由は他にありました。
松下電器は、昭和8年(1933年)に事業部制を始めています。このときの事業部の数は工場を分割した三つで、ラジオ部門が「第一事業部」、ランプ・乾電池部門が「第二事業部」、配線器具・合成樹脂・電熱器部門を「第三事業部」としました。ここで特徴的なことは、事業部に生産のみならず販売にも責任を持たせたことです。
事業部制を採用した理由について、松下幸之助氏は次のように説明していました。
1.松下電器は創業以来「衆知を集めた全員経営」を実践してきた。つまり、全員の才覚によって仕事をしてきた。事業部制もその考え方から出発した。
2.事業部制を採ることにより、成果がはっきりしてくる。つまり、個々の事業部は利益目標があるため、その事業部で利益を上げなければならない。仮に、その事業部が損をしていても、他の儲かっている事業部からその損失を補てんすることはしない。そうゆう厳しいところから経営者が育ってきた。
3.さらに、自分は体が弱かったから、人に仕事をやってもらうしかなかった。
松下電器の事業部制は、まさに松下幸之助氏が考える理念や経営哲学から出発しているのです。経営組織論が説明する事業部制という経営学の知識が先に松下幸之助氏にあって、その知識を具体化したものではありません。ここが正に、経営は生き物だといわれる所以ではないでしょうか。
ここから見えてくるものは、経営には経営者の哲学が現れるということではないでしょうか。
経営のコツ
松下幸之助氏は、「経営は、教えられない。」と言っています。経営の神様と呼ばれた人でさえ、経営は教えられない。幸之助氏は「経営のコツは体得するもの」と言っています。この言葉の意味するものは、経営はマニュアル化できないものと解釈できるのではないでしょうか。
経営は、本質的に現実との闘いなのです。頭で理解しただけの知識だけでは、現実に立ち向かうことは困難だと言わざるを得ません。経営のコツを取得するには、経験が必要とされます。一つ一つの問題にぶつかり、それらを乗り越える経験が必要なのでしょう。
また、松下幸之助氏は、経営のコツについて次のように述べています。
新聞記者から「松下電器成功の秘訣はどこにあるのか。」と問われ、幸之助氏は「雨が降れば誰でも傘をさす。それが秘訣だ。」と応えています。この言葉の意味するものは、「雨が降って来れば誰でも傘をさして濡れないようにする」という天地自然の理に順応することが大事だということです。経営のコツもまさにこの自然の理にかなった「当たり前のことを当たり前にやること」ではないでしょうか。